その顔をどこかで見た、という感覚はまだ頭の中に残っていました。 電車のドアが開いて、武道が中に入っても、その感覚は消えませんでした。
---
車内はそこそこ混んでいました。 学生のグループが三席に広がって座っていて、鞄を横に置き、足を伸ばして大声で喋っていました。 おばあさんが一人、通路に立って吊り革を掴んでいました。 誰も何も言いませんでした。 日向は迷わなかった。 学生たちのところに歩いて行って、はっきり言った。 「鞄を片付けて、ちゃんと座って。他の人が座れないでしょう。」 学生たちはしばらく日向を見つめたが、それからおとなしく従った。 おばあさんがお礼を言って座ると、日向は何事もなかったように武道のところへ戻ってきました。 「今夜、一緒に勉強するから。」日向は言いました。 「あなた、勉強が必要そうだし。」 武道は何も言えなかった。
女の子の部屋に入ったのは、生まれて初めてだった。 武道はドアのすぐ内側に立ったまま、日向が机の上を片付けるのを見ていました。 この事実を強く意識していたので、顔に出さないようにするのが大変でした。 「座って。」日向は上を向かずに言いました。 武道は座った。 日向はノートを二人の間に開きました。 でも勉強を始める前に、武道のほうを見ました。 「ありがとうって言いたかったんだ。ナオトのために、あのときしてくれたことが嬉しかった。」 「あれは別に——」 「ナオト、あれから変わったんだよ。お父さんはいつも家にいないから、ナオトはずっとそれが嫌いだった。」 日向は少し間を置きました。 「でも今は、警察官になりたいって言ってる。お父さんみたいに。」 ゆっくり首を振った。 悲しそうではなかった。 まだ不思議に思っているような顔だった。 「それは、あなたのおかげだと思う。」 武道はその言葉を聞いて、未来のナオトのことを考えた。 机の上に並んだファイル、すべてを背負っているような歩き方。 そうか。あの日が始まりだったんだ。 「きっといい警察官になるよ。」武道は言いました。 日向はいつもより少し長く武道を見た。 「最近、なんか変わった感じがする。もっと大人になったというか……私の知らない部分があるみたいで。」 少し照れたように笑った。 「もっとあなたのことを知りたいな。」 武道が答えようとしたとき、外の空に光と音が走った。 花火だった。 日向はもう立ち上がっていた。 「行こう。」
日向のマンションの屋上は広くて平らで、街が四方に広がっていました。 花火が次々と上がって、そのたびに光が日向の顔を照らした。 一瞬だけ、明るく、すぐ消えた。 武道は日向が空を見るのを見ていた。 戻りたくない、と思った。 その気持ちははっきりしていた。 大げさではなく、ただそういう事実として。 未来では、日向は死んでいる。 でも今、日向は目の前に立っていて、大きな花火を見て笑っている。 その二つの間にある距離が、武道には重くのしかかっていました。 武道は手を伸ばした。 日向の手に触れた。 指の感触があった。 でも、すぐに何かが違った。 夜の空気が消えて、武道はまったく別の場所にいた。
寝ていた。 天井は日向の屋上ではなかった。 完全に目が覚める前から、もう泣いていた。 涙はすでに顔の上にあった。 心が追いつく前に、体が悲しみを処理してしまったようだった。 「戻ったな。」 ナオトが向かいに座って、ずっと待っていた人間のように注意深く武道を見ていました。 「握手だ」とナオトは言いました。 「効果がある。やっぱり正しかった。」 前に身を乗り出した。 「何が変わった?前と何が違う?」 武道は顔を拭いた。 「俺、お前の手を間違えて掴んじまって。本当は——」止まった。 ナオトは武道を見つめた。 「間違えて俺の手を掴んだ?」 「ちょっと待って、俺は——」
---
---
---
「間違えて俺の手を掴んだ。」ナオトは顎を少し引いた。 鼻から息を吐いた。 「わかった。」それからすぐ先に進んだ。 「じゃあ聞いてくれ。わかったことがある。お前は正確に十二年前に戻れる。そっちで一週間過ごしたら、こっちでも一週間経つ。でも、お前の体はその間ずっと動かない。仮死状態みたいになってるんだ。」
武道はゆっくり頷いて、その情報を頭に入れた。 それから言った。「佐野万次郎に会った。」
ナオトはぴたりと止まった。「会ったのか。」
「ああ。」
「それで、お前は——」ナオトは一度口を閉じて、考え直した。 「万次郎に近づけるなら、俺でもできた。」声は平らで落ち着いていました。 「俺は警察官だ。できることがある。」
「そのやり方はしたくない。」武道は体を起こした。 「ちゃんと話したい。なんでトーマンがああなったのか知りたい。会いに行こう。直接。」
ナオトはしばらく何も言わなかった。 それから、「お前の弱い部分、なくなったみたいだな」と言いました。
確信があるような声ではなかった。 信じていいかどうか決めようとしているような声だった。
ナオトはテーブルの上のファイルを引き寄せて、開いた。
---
二人は一緒に書類を調べていきました。 名前とトーマンの現在の組織をつき合わせていった。 ほとんどは知っているものだった。 それからナオトが手を止めた。
「これだ。」ファイルを武道のほうに向けた。 「千堂敦史。トーマンの上の幹部だ。」眉を寄せた。 「これはおかしい。俺の記録には——元のタイムラインでは、敦史は誰かを刺して捕まったはずだ。清水正高を刺した。服役して、その後は何でもない街のチンピラだった。」
武道はその名前を見た。 胸の中で何かが動いた。
「お前が何かを変えたんだ」とナオトは言いました。 「向こうにいた間に。万次郎に会ったときに。それで何かがずれた。」武道を見た。 「もし敦史がトーマンの幹部なら、万次郎に近づけるかもしれない。警察には見つけられない。誰にも見つけられない。でも敦史が知ってるなら——」
「電話番号、持ってる。」武道はもう携帯を探していた。 「古い番号だけど、変えてないかもしれない。」
ずっと友達でいようぜ。敦史の声が聞こえた気がした。 あのバカみたいな大きな笑顔と、あのリーゼントが目に浮かんだ。 あれは本物だったんだ。
電話した。
三回鳴った。
「はい?」
武道は息を吐いた。「アッくん。俺だ。」
少し間があった。それから、「わかってる。ずっと待ってた。」
---
アッくんが経営するホストクラブは、金色の文字が入ったビルの上の階にあった。 中は薄暗くて、丸いブースが並んでいた。 武道は中に入って周りを見た。 会いに来た男がすぐわかればよかったのに、最初はわからなかった。
リーゼントが消えていた。 顔は合っていた。 もっと大人びて、硬くなっていたが、顔は同じだった。 でも髪が変わっていたので、別人みたいに見えた。
「ひどい顔だな。」アッくんは言った。
「髪、切ったんだな。」武道は言った。
アッくんの表情が少し動いた。 笑顔に近かったが、目まで届かなかった。 「来い。話せる場所に行こう。」
一度だけ、少しの間、ナオトを見た。 それから武道を階段のほうへ連れて行った。
---
店の屋上は外に開かれていて、街の音が下から聞こえていました。
二人はしばらくそこに立って、昔の話をした。 二人が知っている名前、バカなことをしたときの話、その場にいた者だけがわかる話。 武道はその時間の中に少しいさせてもらった。 本物に感じられた。 アッくんがまだ同じ人間みたいに感じられた。
「うまくいってるじゃないか」と武道は言いました。「この店も、金も——」
「金で買えないものがある。」アッくんの声が変わった。 街のほうを見ていて、武道を見ていなかった。 「ナオトが警察だってわかってる。日向の弟だってこともわかってる。」
武道は何も言わなかった。
「線路だ」とアッくんは言いました。 「お前が落ちた日。あれは俺がやった。」 ドラマチックでもなく、覚悟したことを認めるような言い方だった。 「お前を押した。でもナオトはもうそこにいた。お前が落ちるってわかってたみたいに。」
その言葉がすぐには意味をなさなかった。 それから意味がわかった。
「お前がやったのか。」武道は言った。
「お前は時間を遡れる。」アッくんは言いました。 「ナオトに助けを求めた。何が起こるかわかってたから、変えた。」 首を振った。 「信じられない話に聞こえる。でも、他に説明がつかない。」
「俺を殺そうとしたんだ。」武道は自分の声が静かで奇妙に聞こえるのがわかりました。 「お前は俺の友達なのに。」
「俺は稀咲鉄太の部下だ。」アッくんはその言葉を、嫌いな事実みたいに言いました。 「トーマン全員がそうだ。万次郎には何年も会っていない。稀咲がすべてを仕切っている。」 ようやく武道を見た。 「万次郎が変わったのは、ドラケンが死んでからだ。龍宮寺健が死んだあと、万次郎はもう同じじゃなかった。そこに稀咲が入り込んだ。」 少し間を置いた。 「戻れ。戻って、ドラケンを救え。万次郎を救え。俺たち全員を救ってくれ。」
武道が口を開こうとした。
アッくんは一歩後ろに下がった。 もう一歩。 後ろには端しかなかった。
「アッくん——」
落ちてしまった。
武道は柵まで走って下を見た。 もうわかっていた。 街の音はそのまま続いていた。 近くで、ナオトが階段を上ってくる音がした。
武道は柵のところに立って、泣いた。
---
屋上の端、設備の構造物の裏側に、男が暗闇の中に立っていました。 ずっとそこにいた。 すべての言葉を聞いていた。
稀咲鉄太は柵のところの武道を見ていました。 その表情は、何も語っていなかった。
---
武道はナオトを見つけて、すべてを話しました。 そのときには声は落ち着いていた。 感情で運べないほど大きすぎるものを話すときの、あの落ち着き方だった。
「ドラケン」と武道は言いました。 「龍宮寺健。あいつが死んだ日を調べてくれ。そこから始まってるんだ。トーマンが壊れたのはそのときだ。」 ナオトを見た。 「稀咲だったんだ。最初からずっと、稀咲がトーマンをああしてしまった。」
ナオトはノートを取り出した。
武道は部屋の真ん中に立って、決意が自分の中に落ちてくるのを感じていました。 重くて、はっきりしていて、逃げ道がなかった。
みんなを救う。全員を。
あとは、どうやってやるかを考えるだけだった。